たまたまわたしは演奏家で
病気により指が自由に動かなくなって
演奏が出来なくなってしまった
自分にとって好ましくない状況になることや
困難に見舞われることは
生きていたら誰しもが経験するでしょう
今現在のわたしの活動は
自身の「挑戦」でもあります
わたしが音を奏でるということは
「自分の好きなことをする」ということでもあり
「困難に立ち向かうこと=挑戦」でもある
(指がうまく動かないからね)
それってつまり
「生きる」ということ
なんじゃないのかなって、感じています
活動休止の10年間、なぜいつもモヤモヤしていたのか
それは
自分の本音を見ようとせず
本当にしたいことから逃げて
挑戦さえしていなかったからだと
今ならわかる
自分の可能性を自ら否定していたから
当時は「生きている」実感が無かった
このままただ
なんとなく普通の生活を送り
なんとなく人生を終えていく
それでいいの?
自分に問い続けた
一度しかない人生を
「なんとなく」終わらせてしまっていいの?
病気が治っていないにも関わらず
人前で演奏できる状態(心、身体)になった理由として二つ
わたしが思うこと
①病を受け入れたから
「病気を受け入れる」ということが本当に難しかった
どっかに行ってくれと毎日懇願していた
でもどんなに願っても状況は変わらなかった
どんなに治療やリハビリをしても大して状況は変わらなかった
そこでやっと
「まずは自分が変わるしかない」
そんな風に思うようになって
身体のこと、心のこと、見つめました
見たくないこともしっかりと見ました
見て、留める→「認める」
今は
「排除じゃなくて共存」
そう思っています
「受け入れた」=「諦めた」
というわけではないです
受け入れられて初めて
本当の意味で病に向き合うことができるようになったかなと
感じています
②あるものに目を向けたから
わたしはこれが足りない
わたしはこれが出来ない
そこばかりにフォーカスしていたところから
すでにあるもの、できること、そこを見るようにした
わたしはこれがある
わたしはこれもある
わたしはこれができる
わたしはこれもできる
これは
音楽だけに関わらず
心豊かに生きていくために必要な捉え方と思う
「すでにある」
そこに気づくかどうか
このことも
フォーカルジストニアの演奏家としての活動の中で
体現していきたいことのひとつです
自分をしっかりと見つめ
「認めた(見留めた)」ときに
人生の歯車は動き出すのかもしれない
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