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Profile
​プロフィール

3歳からピアノ、12歳からクラリネットを始める。

北海道教育大学札幌校芸術文化課程音楽コース卒業(クラリネット専攻)。

第15回ハイメスコンクール第2位を受賞し、同大学より交換留学生としてノルウェーのグリーグ音楽院に留学。

2004年札幌市民芸術祭新人音楽会にて、市民芸術祭奨励賞を受賞。

2005年渡仏、フランス国立ベルサイユ音楽院クラリネット科、パリ・エコール・ノルマル音楽院室内楽科をともに最優秀の成績で卒業。在仏中、フランス国内、チェコなどでソロ、室内楽のコンサートに出演。

2007年帰国。

第19回京都フランスアカデミーを受講、公開レッスンを受ける。

2010年文化庁/日本演奏連盟主催演連コンサートSAPPOROにてソロリサイタル

開催。

同年、Kitara&札響セレクション北の精鋭アーティストたちにて札幌交響楽団と

モーツァルト作曲クラリネット協奏曲を協演。

その後、「フォーカルジストニア」という脳と神経伝達に異常をきたす病にかかり、

左手の指のコントロールが不能となる。2012年から活動休止。

病を理解し一から身体と心を見つめ直し少しずつ回復、2022年に活動を再開。

「排除ではなく共存」~病の左手もわたしの大切な身体の一部~ 

全てを受け入れ、それでも葛藤しながら「生きる」リアルを、音と言葉で伝えている。

これまでにクラリネットを渡部大三郎、武田忠善、三界秀実、故L.K.ブリニルドセン、P.キュペール、R.ギュイオの各氏に、室内楽をS.ハンネボルド、C.ドビュッシーの

各氏に師事。

現在はピアノと鍵盤ハーモニカの演奏も精力的に行うほか、様々な試練を乗り越え現在に至るまでの変遷を語る「HiROE's Story」(講演会)も好評を博す。

2024年は幼少期から続けてきたピアノによるコンサートを開催予定。

 

経歴

My Story

誕生から今のわたしができるまで

My story

父、母、6歳上の兄と4人家族。

3歳からピアノを始めます。私の音楽人生はここからスタート。
いつも歌を歌い、ピアノを弾き、音楽は生活の一部でした。


***
中学校で吹奏楽部に入り、ここでクラリネットに出会います。
最前列にビシッと座って吹いている姿や、速い指の動きがとにかくかっこよくて
「私もやりたい!」と思ったのが、クラリネットを選んだ理由です。

この部活は当時、吹奏楽コンクール全国大会金賞受賞の常連校だったので
吹奏楽経験者なら誰しも耳にしたことがあるであろう聖地【普門館】での演奏も
経験しました。

このような強豪校だったので、中学校での記憶は部活一色。
青春の全ては部活でした。


***
高校に入学した私は体操部に入部し、新体操をやりました。

幼少期にバレエを習っていたのと、

新入生向けの先輩のパフォーマンスがあまりにもかっこよくて。
 

部活や学校生活が楽しくて

初めて音楽から少し離れていた時期です。

高校2年生で、卒業後の進路をぼんやり思い描く。
「一生音楽に携わっていたい。音楽と共に生きていきたい。」
そんな想いがありました。

そして私は音楽を専門的に学ぶことに決め
大学受験に向けてしばらくお休みしていた
ピアノとクラリネットのレッスンを再開しました。

クラリネット

クラリネット専攻で大学に入学

今となってはクラリネットが大好きな私ですが、
高校生の頃はピアノの方が得意で好きでした。

大学もピアノ専攻で入学したかったのですが、
○我が家にグランドピアノがなかったこと
○高校に入ってから1年半ほどのブランクがあったこと
○ピアノ科の倍率は楽器の中で一番高いこと
以上の理由から、私にとってはかなりの難関でした。

でも、どうしても音楽が学びたかった。大学に行きたかった。


なので私は専攻楽器をピアノからクラリネットに変更しました。

これは私にとって大きな大きな挑戦でした。

ノルウェー

ノルウェー・ベルゲンに交換留学

そんな私も、大学に入ってからクラリネットがどんどん好きになり、楽しくなっていきました。練習した分だけ上達していき、自分とクラリネットの可能性に心がワクワクしていました。

そして、自然と芽生えた「海外留学」への想い。
もっと上を目指したい
もっと広い世界を見てみたい


大学からの推薦で、ノルウェーのベルゲンという街にある「グリーグ音楽院」に
一年間交換留学生として学びに行きました。
グリーグ音楽院と教育大学が提携を結んで、初めての留学生が私でした。
ノルウェーってどこ?ベルゲンってどこ?先生はどんな人?何語を話すの?
分からないことだらけでした。

それでも私は、誰も歩んでいない未開の地を開拓していくことに決めました。
ものすごい怖さと共に、「この目で見たい!体験したい!」という
強い想いがあったから。



***
ノルウェーの先生は素晴らしい方でした。
オーケストラ、室内楽、ソロ、何を演奏しても上手。
そしてなにより、彼の人柄に会うたびに惹かれていきました。
彼の音楽は温かくて、優しくて、全てを包み込むような深い音色。
指導者としても、一人一人に真摯に向き合い、的確なアドバイスをくださり、
私の中のクラリネットの可能性をどんどん広げてくださいました。

一年間の留学生活はあまりにも短く、私は日本に戻って教育大学を卒業したのち、再びここに戻り先生の元で勉強がしたいと伝えましたが、
彼の答えは「NO」

「さらに勉強がしたいのなら、本場のフランスに行きなさい」と。

 

 


「あなたの好きなように」といつも私の意思を尊重してくれる先生が
何度お願いしても【私がノルウェーに戻ること】だけは
首を縦に振りませんでした。



もっと上を目指しなさい
大丈夫。ヒロエは必ず素晴らしいクラリネット奏者になるから。
信じてるから。


「また会おうね!きっとだよ!」
そう固く約束をして、私は帰国しました。
間違いなく、私の人生を変えた一年間でした。

パリ

フランス・パリへ

ノルウェーから帰国して、その日の晩に両親に伝えました。
「教育大学を卒業したら、フランスに留学する!」

彼らは絶句(笑)
それでも
「なんとなく、そんなことを言い出すのではないかと思っていたよ」
そう言って応援してくれました。
本当に感謝です。

大学を卒業し、渡仏準備も順調に進み、一ヶ月後にフライトが迫ったある日
ノルウェーの先生の訃報を受けます。

 

 


時が止まりました。
フランスに住みながら、ノルウェーに定期的に会いに行こうと
楽しみにしていました。
「また会おうね!」って約束していたのに・・・

無気力になり、何も手につかなくなりました。
こんな気持ちじゃフランスにも行けない。もうやめようかな。
何日も何日も泣き続けました。

 

 


でもあるとき、気づいたのです。
先生がなぜノルウェーに戻らず、フランスに行きなさいと言ったのか。
私がここでフランス行きをやめてしまったら
先生はきっと悲しむだろうな、と。
挑戦し続けていくことが
先生への一番の恩返しになるのではないか
、と。

「私やっぱり、フランスに行く。」

気持ち新たに、決意を固めました。
フライトのわずか、2週間前のことでした。



***
通う学校も、住む場所さえも決まっていなかった中で
楽器とスーツケースだけ持って渡仏しました。
両親はさぞかし心配だったことでしょう。
親となった今の私には、その気持ちが分かります。

それでもなんとかなりました。
音楽学校に合格し、住む家も見つけ、そこから2年間
パリで存分に学びました。

辛いこと、悲しいこと、たくさんあったけれど
「もっと上手になるんだ!」
ただただその一心でした。
この気持ちは、なにがあってもブレることはありませんでした。

演奏会

札幌を拠点に演奏活動

多くの演奏活動の中で特に記憶に残っているものが、
札幌交響楽団と協演したモーツァルト作曲のクラリネット協奏曲。
涙が出るほど素晴らしい作品、最高のホールと最高の共演者。
クラリネット奏者として冥利に尽きる。その一言でした。

30分越えの大曲ですが、演奏があまりにも楽しくて曲の終わりに近づくにつれ
「どうか終わらないで!」
と心の中でお願いしていたほどです。
この瞬間がずっと続けばいいな。そう思っていました。

奏者とお客様、コンサートホールにいる人全てが一体になったあの気持ちよさ
生涯忘れることはありません。


***
その後東京に活動拠点を移し、ほどなくして指の不調が現れます。

「フォーカルジストニア」

脳と神経伝達信号の誤作動のため、自分の身体の動きをコントロールできない
原因不明で治療法も確立されていない病です。

一年ほど治療と演奏活動を平行して行ってきましたが

自分の身体なのにコントロールができない苦しみ、

どんなに練習をしても最善の状態で演奏をお届けできない現実に
身も心もボロボロになり、舞台から去るしかありませんでした。

挫折

人生で初めての挫折/暗黒時代

ひたすら上を目指し ストイックに向き合ってきたクラリネットが
吹けなくなってしまいました


いつも一緒で 命ほど大事なものを
失ってしまいました

 

 


これからどう生きていけばいいのだろう
クラリネットを吹けない私なんて なんの価値もない
生きている意味がない

 

 


ひどく落ち込みました
このまま消えてしまいたい
本気でそう思いました

 


息はしているけれど 死んでいる そんな毎日
塞ぎ込み 人にも会えなくなり 鬱状態に


 


なんで私なんだろう
なんで一番大切なものを奪うのだろう
私がなにをしたというのだろう
なんで 
なんで なんで・・・

活動休止

活動休止の10年間

演奏活動休止中に結婚し、ふたりの男の子を出産しました。
このまま主婦として生きていくのかな。
ぼんやりとそう思っても、心は曇り空。
ずっと悶々としていました。

クラリネット以外に自分ができることがないかいつも探して、
講習を受けたり資格を取ったりの日々。
でも「これだ!」というものには巡り会えず、
自分が何をしたいのかすっかりわからなくなっていました。


人生をかけてきたものを失った、かわいそうで惨めな人


楽器を吹けなくなった自分を、そうやって評価していました。

しかし、いろんな人との出逢いや学びをきっかけに
私はどう生きていきたいのだろう?
本当にしたいことはなんだろう?
私の大切なものはなんだろう?
私が笑顔でいられるものはなんだろう?
何度も何度も自分の心に問いかけるようになりました。
とことん自分と向き合いました

現在

現在の私

「私はやっぱり音楽が好き」

自分に問い続けた結果、出てきた答えは【音楽】でした。
以前のように難しい曲を吹いたり、大きなステージに立ったり
一般的に「演奏家」と言われる人たちと同じようなことはできないかもしれません。

病気という事実は変わらない。
けれども、
私の心が変わりました。
物事の捉え方が変わりました
すると、見える世界も変わりました。

完璧じゃないとダメだと思っていたけれど
完璧じゃなくても、受け入れてくれる世界がここにある。
クラリネットが吹けない私は価値がないと思っていたけれど
クラリネットがなくても私を必要としてくれる世界がここにある。


10年間塞ぎ込んで、ウジウジしていた私。
思い切って辞めることもできない、中途半端な私。

一度しかない人生、本当にそれでいいの?
一度の挫折で、諦めてしまうの?
どんな想いで、ずっと音楽をやってきていたの?

私はただただ怖かった
病気になって、もがけばもがくほど転落していく自分。
自分の身体なのに言うことを聞かない。コントロールができない。
何も考えずにできていたことが、全くできなくなってしまった。
苦しかった。情けなかった。やるせなかった。
再びその体験をすることに、とてもじゃないけど
私の心が耐えられないと思っていた。

奈落の底にいる私がまた地上にたどり着けるのは

遙か遠くに感じて、絶望でしかなかった。
 


もちろん今でもその怖さはあるけれど
「音楽が好き」「音楽がやりたい」「表現がしたい」
という気持ちを受け入れられるようになりました。

 


何者かになろうとしなくていい。

世間一般の「演奏家」を正解にしなくていい。
私を生きていい。



本音、本心を認めること

自分の望むままに生きると決めたことで、
私の魂が喜んでいるのが分かります。



誰かと比較して
私なんか・・と落ち込む

こんなことできるはずがない、と

自分で制限をかける

否定しているのも
責めているのも

自分の足を引っ張っているのも「私自身」
そこに気がつくことができました。


 


私はどんな形であっても
音楽と共に生きる」と決めました
音楽家という「仕事」ではなく
音楽家という「人生」を選択する

そう肚に決めたら

わたしの中の「音楽」を表現することは

心が満たされることなんだと

認められました。

音楽はわたしから切り離すことのできない

​大切な存在です。


***

今、10年ぶりに「フォーカルジストニア」に向き合っています。

西洋医学、東洋医学、ありとあらゆる治療、療法、身体の使い方をやってきて、

何をやっても良くならなくてもうダメだと諦めた10年前。

現在、これまでになかったアプローチで「病気」に立ち向かっています。

過去の傷が疼きます。でも・・・

「もし、これで自由に吹けるようになったら?それってすごいことだよね」

そんな想いで日々生きています。

現在(いま)を見つめています


これからは私らしく生きていこう
どんなことが起きても

それは人生の深みになり、味わいになる。

これから先まだまだ長い。

どんな彩り豊かな人生になるのか

​楽しみです。

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